声で操作するのはなぜ恥ずかしいのだろう
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スマートスピーカーやロボットに声かけるのなんか恥ずかしいな、抵抗あるな、と感じたことありませんか?
音声UI(Voice UI) 、音声UXデザインのセミナーやコンサルティングをしていると良くこの質問がされます。今回は、『声出すことが恥ずかしい、抵抗がある、違和感があるのだけど、今後音声UIはそれでも使われるのだろうか?』というテーマについて考えてみます。
なお最初にお断りしておきますが、この質問に対する完全正答は私の中ではまだ見つかっていません。色々な視点からの考察が主となります。
声を人前で出すのが恥ずかしい
以前の音声UIやスマートスピーカーに関する調査結果をみてみると、興味が湧かない・使わない・買わない理由の一つに『声を出して操作すること自体に躊躇する』が常に理由として入っています。
例えば、2016年の日テレNEWS24のアンケートでは 36.5% が「他人に聞かれたくない」結果が出ています。2017年の KDDI “音声UIによる家電捜査調査(国内)” (PDF) によると、人前で音声検索するのは恥ずかしい人が 7割を超えています。特に女性は74.6%と男性67.6%よりも高く、特に女性の30代が最も恥ずかしいと感じる世代と出ています。一方で、「恥ずかしい」と感じない割合が最も高かったのは男性の50代だったそうです。
また、2018年12月の電通デジタルのアンケート “スマートスピーカーの利用実態(日本)” では、スマートスピーカーを持っていない理由において、「声での操作が恥ずかしい、聴かれたくない、抵抗感がある」が 9.8% でした。興味深いのは、この調査報告書によると、年々音声操作を恥ずかしいと答える人が減ってきている、そうです。
これらはあくまでもアンケートの結果ですが、皆さん自分自身は如何でしょうか?
私個人の話ですが、PlayStation4 の音声UI/UXの開発を始めた頃、オフィスフロアで発話するのを若干躊躇っていたことを思い出しました。オフィスフロアは基本的に静かで、人の声が寧ろ目立ってしまう環境でした。すぐ隣、そして目の前には違う仕事をしている人が座っています。皆、目の前のPCに向かっておのおのの仕事をしているのですが、そんな静寂を切り裂いて、
「プレイステーション!ファイナルファンタジー!起動!」
職場の人間が急に声出したらびっくりですよね(苦笑)とはいえ、仕事ですから仕方ありません。音が出るアプリなどはヘッドフォンなどすれば他人の迷惑にはなりません。しかし、音声UIだけはそうもいきません。マイクを口のそばにちかづけてぼそぼそ話しをしてもいいのですが、それでは本番環境と違いすぎて意味がありません。
ちょっと脱線しましたが、言いたかったのは「音声UI/UXの担当者であっても恥ずかしい時があった」です。ただ、それも慣れてきて麻痺してきました。職場の中でもあちこち音声UIのための発話があってもあまり気にならなくなりました。慣れとは恐ろしいものです。つまり、「慣れ」が一つの答えになるかもしれません。
モノに対する発話
皆さんはモノに対して普段声をかけますか?自分のお気に入りの道具、愛車そして調理道具や洋服などに。ここで『モノに対して声をかける文化』を考えてみましょう。
実際にモノに対して「頑張ったね!」「いいねぇ!」なんて本当に声を出す(発話)する人はどれくらいいるのでしょうか。実調査していみたいものですが、声に出さなくても心の中で感謝したり、挨拶したりしてる、って人はいるかもしれませんね。モノではありませんが、植物に水を上げる時に「ほら、新鮮な水だよー。元気に育ってね」と心の中で会話する人は少なくないと思っています。
さて、日本には『八百万の神』(やおよろずのかみ)といって “万物には神が宿る” という信仰が古くからあります。モノには霊魂が宿っていてその神に我々は話しかけているのだ、と捉えると日本人はモノに話しかけるカルチャーが根底にはあるとも思えますが、私の感覚では、それは実際に声をかけるというよりは「心の中で願う、頭の中で唱える」のが一般的に感じています。
英語圏においてはモノに対して「Good Job!」なんて発話してるシーンをみかけますが、日本語だとなかなか口に出すには良い表現がなくて心の中で「よしよし」みたいに感謝するのではないでしょうか。これには日本語・日本のカルチャーが影響していると私は分析しています。
日本は察するハイコンテクスト文化
日本人(日本文化)はハイコンテクストと言われます。ハイコンテクストとは、コミュニケーションにおいてイチイチ細かく説明するのではなく、体験や価値観などの共有を通して以心伝心で意志をつたえようとする傾向が高い文化のことを差します。「空気を読む」「状況を察する」なんてのはまさにハイコンテクスト文化の特徴です。
一方、それとは逆に言語そのものが意思伝達依存度して高く、話し手が直接的に説明することが重要視されるのがローコンテクストで、アメリカ・ドイツ・スイスなどがこれにあたります(諸説あります)。
ハイコンテクストとローコンテクストの分類図を見て頂ければ分かるように、ローコンテクストはタスク指向型(命令型)で直接的、シンプルで沈黙は不快、そして話し手側の依存度が高い傾向があります。一方で、日本に代表されるハイコンテクストでは、暗黙のルールや曖昧な表現を好み、暗示的で、かつ無意識的、そしてコミュニケーションにおいて聞き手側の能力(理解度、把握力等)に依存してきます。
ここからは私の邪推ではありますが、日本のハイコンテクストな文化はモノとの対話にも当然適用され、その結果として、モノに対してもその特徴である「多くを話さず、暗示的、沈黙的」なため、発話はしないけれど心の中で留めて唱える、ということが多いのではないだろうかと考えました。または、モノに伝えても自分の気持ちなど深く察してくれないしという諦めも若干あるのかもしれません。
もちろん他にも日本語でのコミュニケーションにおいては、対話する相手と自分の位置関係がはっきりしていないと話がしにくい特徴もモノと話がしにくい原因とも捉えています。我々日本人は、尊敬語・謙譲語・丁寧語等を使い分けて話をします。上司や初対面の人とは一般的には「タメ口」では話はしませんよね。
では、モノとはどんな立ち位置で話しをすればいいのでしょうか?
カワイイぬいぐるみなら想像はつきますが、スマフォはあなたにとっては、目上でしょうか?部下でしょうか?友達??
まとめ
「人前で声を出すのが恥ずかしい」理由について私なりに分析してきました。
他人に聞かれるのが嫌な理由を突き詰めていくと「他人が話しているのを見て不快に感じたから自分はやりたくない」という人もいます。これはなぜでしょうか? 一つは、電車の中での電話の会話を不快と感じるのと同じ理由と私は考えていますが、なぜか、皆さんも考えてみてください。
この他にも「方言を理解してくるのか不安」「どもってしまいそうで緊張する」「間違ったら言い直すのが面倒だから」など他にも理由は考えられます。
実にささいなことですが、様々な要素が積み重なって「モノと話すのは躊躇する、恥ずかしい」意識が出てきているのでは、とも考えています。私の英語の先生で、彼女は英語圏ネーティブですが、旦那さんが日本人で日本語もぺらぺらなのです。その彼女がスマートスピーカーを持っていると知ったので、英語と日本語で違いある?と尋ねたところ、
「英語のほうが断然言いやすい。日本語にはモノに対して命令したりする良い言葉がないから。旦那も最近は英語でスマートスピーカーに話しかけている」
という興味深い言葉が返ってきました。
日本語・日本人にとっては音声UIは不利なんでしょうか?それとも慣れればそんなのは解決してしまうのでしょうか?
そんな課題を色々な視点で今日も考えています…